八日目の蝉<TV>(2010)/★★★★
映画版の背景として楽しめる
今私は"蝉ブーム"真っ最中。
NHKドラマ版を見始めたのですが、その違いが原作ではどうなっているのか気になって、原作も読み始めました。
これはNHKで放送されたドラマ「八日目の蝉」の内容です。(以降ドラマ版)
ドラマ版は『プロフェッショナル 仕事の流儀』の休止を受けて急遽作られた『ドラマ10』枠の第1作として、2010/3/30から2010/5/4 全6回のシリーズとして放送されています。
映画版が147分に対して、ドラマ版は45分の6回(270分)で約2倍のボリューム。
その分原作に近いだけでなく、付け加えられたエピソードもあります。
また、NHKドラマという性質もあってか全体的にライトな作りになっています。
映画版のような素晴らしい絵作りを期待するとガッカリしますので、あくまでもTVドラマと割り切ってみることをお勧めします。
脚本は浅野妙子さん。映画では『NANA』『大奥』『ICHI』と食指が動かない作品がずらり。
大きな違い
ドラマ版、映画版とも基本は原作に忠実です。
原作を読むと、ああドラマ版はここを拾ったのかとか、映画版はこのセリフを言わせたのかと楽しむ事が出来ます。
大きな設定や流れはほぼ同じなのに、原作・ドラマ版・映画版では鑑賞後の印象が全く違います。
原作がリアルさを求め、野々宮希和子という人物のみならずその周辺の人々をシビアに描いたのに対し、ドラマ版は野々宮希和子側の視点から何人かの人々にスポットを当てています。
これに対し映画版では薫からの視点と希和子の視点が交錯する作りになっており、より重層的な構造になっています。(そのせいか、他の人々は記号的な扱いになったり、説明不足の場面もありますが)
ドラマ版の一番大きな違いは子供を誘拐された妻はごく普通の母親で、誘拐された娘 薫(=恵理菜)も映画ほど荒んでいないように見えることです。そもそも犯罪者側を描く物語なのでバランスをとるためにこのようなキャラクタにしたのでしょうか?
映画版の感想で「正妻の性格がひどいのは、物語上の方便」と書きましたが、実は原作はもっとひどくて、完全に壊れた女として描かれていたので、この立ち位置はある意味NHK的な配慮かもしれません。
もう1つの違いは野々宮希和子を守ろうとする男性が現れる事です。
この存在がラストで効いて来るのですが、映画版が娘との生活に人生を賭けた女の物語に対し、ドラマ版は誘拐という人の道に外れた女に訪れる運命のドラマという風にも受け取れます。
その意味でも「希和子」の物語と言えるかも知れません。
キャスト
主演は「金麦」CMでお馴染みの檀れい。いまやミッチー夫人。髪型のせいかCMとは随分印象が違って落ち着いて見えます、雰囲気が竹下景子さんに似ていますね。
とても赤ん坊を誘拐するような人には見えませんが、案外そのほうが怖いのかもしれません。
薫役には「北乃きい」ちゃん。無口な少女として登場しますが、井上真央ちゃんほどの凄みは感じません。(それも演出かもしれませんが)
その他のキャストを映画版と比較する形で掲載します。
キャスト一覧
役名 | 映画版 | ドラマ版 |
---|---|---|
野々宮希和子(ルツ) | 永作博美 | 檀れい |
薫(=恵理菜)(リベカ) | 井上真央 | 北乃きい |
薫(幼少時) | 渡邉このみ | 小林星蘭/篠川桃音/奥村夏帆 |
永井千草(マロン) | 小池栄子 | 高橋真唯 |
秋山恵津子(妻) | 森口瑤子 | 板谷由夏 |
岸田孝史 | 劇団ひとり | 岡田浩暉 |
秋山丈博 | 田中哲司 | 津田寛治 |
沢田久美(エステル) | 市川実和子 | 坂井真紀 |
沢田昌江(久美の母) | 風吹ジュン | 吉行和子 |
沢田雄三 | 平田満 | (なし) |
エンジェル | 余貴美子 | 藤田弓子 |
写真屋店主 | 田中泯 | 藤村俊二 |
ドラマ版のみ
ごみ屋敷の女 | 倍賞美津子 |
高石敬子(サライ) | 高畑淳子 |
篠原文治 | 岸谷五朗 |
以下はストーリ紹介と完全なネタバレです。
ドラマを見たい方は見ないほうがいいです。
ストーリー(と感想)
第1回 逃亡
希和子(檀れい)が子供を連れ去るシーンから始まり、犯行に至った経緯をじっくりと描く。
諸悪の根源である不倫夫には津田寛治。ドラマ版では悪い男というより情けない男として描かれている。
妻役には板谷由夏。この妻の描き方がドラマ版の特徴の1つ。
ドラマ版では至って普通の妻が夫の浮気で大事な子供を奪われるという描き方になっており、娘の恵理菜(北乃きい)もごく普通の娘として育っている印象を与える。
浮気していた事実も堕胎して子供が産めなくなった事実も喫茶店に呼び出した希和子から告げられたもので「私だったら堕さない」というセリフもそれに呼応したものになっている。
テレビとしての分かり易さを優先したせいか、ともすれば陳腐になりがちな描写が多く、映画を見た後ではまるで「テレビ三面記事」か「ドキュメント・女ののど自慢」のようにも見えるのが難点。
また、一番肝心の「なぜ子供を置いて夫婦二人だけで出かけたのか?」という理由については、こちらでもハッキリとは描かれない。また赤ん坊を持ち去る場面でストーブにタオル?らしきものを落として、「ぼや」なるシーンがある(原作通り)
映画版と違い、髪を切る場面も授乳しようとする場面もないが、泊めてもらった友達の家で、赤ん坊が夜泣きをして困るシーンがある。
終盤は20年後に成人した薫の場面。妊娠したことを父親に告げ「私、妊娠した。相手の人はお父さんみたいな人。父親になってくれない人だよ。」と衝撃の告白で終わる。
つかみは十分。
第2回 エンジェルの家
逃亡した名古屋の公園でホームレスのような女(倍賞美津子)に声を掛けられ、ごみ屋敷のような家で一泊する。
映画版にはなかったが倍賞美津子の演技に引き込まれるドラマ版屈指の回だと思う。
「あんたのような女はエンゼルさんのところへ行くのがいいんだ」と言われたのがきっかけでエンジェルホームを目指すが、なんと入居には「審査」と「全財産の放棄」というハードルがあった。(これは原作通り)
全てを捨ててホームへの入居を希望する希和子に入居が認められ、同じく審査を受けた久美とともにホームで暮らすことになるところまで。
映画版では不思議な教団として描かれていたが、こちらは研修施設と修道院を合わせたような雰囲気で実際にありそうな佇まい。
大きく違うのはエンジェルの家を取り仕切っているのはサライ(高畑淳子)という主導者のような立場の女で、エンジェルさん(藤田弓子)は別に登場します。(原作通り)
映画版ではこの2人を合わせたキャラとして余貴美子が存在しています。
なお、原作ではホームは現在でも存続しており、その成り立ちから逮捕後にエンジェルさんのみが知っていたと自白して有罪判決を受ける下りなど、この団体の記述に多くのページが割かれておりもう1つの舞台となっています。
第3回 悲しき女たち
三年後、エンジェルの家での生活と3歳になった薫が描かれる。
同時期に入居した久美(坂井真紀)が中心となるエピソードで、映画版では「姑に息子を奪われた」と言っていたが、ドラマ版ではなんとその実家が実はすぐそばにあり、ワークの途中で寄り道して会いに行くエピソードが描かれます。(これはドラマ版オリジナル)
息子は母親を全く覚えておらず、ガッカリして帰る途中にその子を連れた母親に呼び止められ、パンを売るシーンが出てきます。自分の子を奪われ、あまつさえ後妻すら迎えられた久美と、不倫相手の子供を誘拐して一緒に暮らしている希和子。その対比が際立っています。
さらにホームを逃げ出そうとする久美のエピソード。ホームに未成年の家出娘を受け入れたことから反対運動が起き、やむなく外部に公開することが告げられます。
久美の脱走を手助けした希和子が、今度は自分が脱走する事になります。
ホームを抜け出して身を隠し、夜を待ってタクシーに乗る希和子に「月がついてくる」と不思議そうに話す薫。これまで外に出たことがないため、乗り物にすら乗った事がない事に気が付き、愕然とします。
人知れず暮らすことを優先したため、娘は世の中のきれいなもの、すばらしいものを見ることなく育ってしまった。そこで希和子は決意します。
「この世の中の全ての美しいもの、綺麗なものを全て見せてあげる」。危険を冒してでも外の世界で暮らすことを誓います。
映画版でも出てきた「この世の中の全ての美しいもの、綺麗なものを見せてあげる」というセリフは、本来この場面で出てきます。ただし、映画版屈指の名シーンである星を見上げる場面は映画オリジナルです。
第4回 恋
映画版ではおおよそ考えられないタイトル。
成人した薫(北乃きい)の前に千草(=マロン)(高橋真唯)が現れる。千草は誘拐事件のことを調べており、自分もホームにいたと語る(すごくあっさり)。
16年前。ホームを脱出した希和子と薫は小豆島に渡り、久美の母である昌江(吉行和子)を訪ねる。
雇って欲しいと頼むが一度は断られ、島で唯一のホテル(実はラブ・ホテルだった)に住み込みで働き始める。昌江がそんな所でで働いている希和子を見かけ、空きができたから来なさいと自分の店で働くことを薦める。
ドラマ版で付け加えられた最大のエピソードとして、島の漁師、篠原文治(岸谷五朗)が現れます。最初は迷惑に思っていた希和子だが、薫の急な病気に本土の病院まで船で運んでもらう出来事を経て少しずつ打ち解け始める。
文治も子供を亡くした過去があることを聞かされた希和子はふとしたきっかけで唇を重ねてしまう…。
この回はドラマ版完全オリジナルとも言えるエピソードで、とても「八日目の蝉」とは思えない展開ですが、腹痛に泣く娘を抱きかかえて、つい今しがた出て行ったフェリーに向かって「行かないで」と叫ぶ場面や病院で保険証が出せずに治療費を払う話、さらに薫が小学校に上がる年頃になり、人気のない小学校に忍び込んで学校ごっこをする姿など「逃亡した母娘に待つ先のない将来」が少しづつ描かれています。
(原作にも役場の職員とお見合いをする話があるが、自分のためというよりは薫を小学校に上げるための「籍」を得ることを考えている)
映画版でちょこっと出てくる学校のシーンですが、実はこんな背景があったのだと気づかされる回です。
第5回 光の島
序盤、獄中の希和子が娘に手紙を書く場面から始まる。映画版では決して描かれなかった部分だけにかなりびっくり。
ホームで一緒に暮らした久美が島に帰ってくる。(原作および映画版ではないエピソード)
文治の仲も公認となりこのまま幸せな暮らしが続くかと思われた矢先、虫送りの祭りに出た希和子と薫の写真が新聞に出てしまう。
一度は島を出かけた希和子だが、薫に反対され考えを改める。
この島で最後まで薫と暮らす時間を大切にしようと決意したのもつかの間、島に現れた不審な人物から状況を察した昌江(吉行和子)から電話がかかる。
「あんた今日は来んでええから」
「はぁ」
「店に来んでええ」
「あの」
「何しとるの、さっさと逃げぇ!」
半ば悲鳴のような昌江の言葉に、あわてて身支度をする希和子。しかしフェリー乗り場には刑事たちが待ち受けていた。
引き離される親子。刑事に抑えられもがく希和子が薫に向かって何かを叫ぶ。
現在。薫(北乃きい)は、希和子が捕まったに何を叫んでいたのかが思い出せず、気にかかる。
映画版ではありったけの涙を搾り出させられたラストシーンですが、ドラマ版では最終回への伏線となるような回で、かなりあっさり風味。
その理由として、虫送りの祭りもフェリー乗り場の場面も昼間のシーンであること。
久美の帰省エピソードに多くの時間が割かれたことがあると思います。
さらに、文治(岸谷五朗)に連れて行ってもらった「天使の通り道」の風景など小豆島の自然が多く取り入れられた事も大きい。
一応写真館の場面も出てくるが、これも最終回への伏線としての扱いで感動の場面ではない。
こうしてみると、ドラマ版は希和子や薫だけでなくその回りの人々の群像劇として見るのが正しく、映画版のように主役達だけをじっと見つめた純粋培養のようなドラマとは別物と思ったほうがよさそうです。
タイトルの「光の島」の意味は次の最終回で解き明かされるが、この小豆島で送った日々が思い出とともに「光の島」として記憶されることになる。
最終回 奇跡
現在。薫(北乃きい)と千草(高橋真唯)小豆島に渡り、思い出の跡を辿ろうとする。
さまざまな場所で既視感に襲われるが、そのことを千草に話そうとはしない。
(既視感の表現がフラッシュバックで描かれるのがかなり安っぽくてゲンナリ)
収穫のないままに帰りかけたとき、ふと足を止めた写真館にはなんと15年前の薫と希和子の写真が飾ってあった。
写真館の主から「仲のいい親子だったよ」と聞かせられ、何かがこみ上げる薫。
そしてフェリーに乗る直前、そばにいた漁師に千草が写真館で入手した写真を見せると「覚えている」という。その男は老いた文治(岸谷五朗)であった。
「その女は15年前に子供を誘拐した犯罪者なんです」と話す千種に
「いや、普通の仲のいい親子やったよ」とぽつりと言う文治。「いっつも一緒におって、くっついて離れんかった」と語る文治に薫が詰め寄る。
「あの人は最後になんて言ったんですか? 教えてください」
思いつめたような表情に訝しげに見つめるが、やがてはっとして「あんた、薫ちゃんか」
「どうしても思い出せないんです。教えてください。」
「そうか、覚えとらんか。あの人はこう言ったんよ」
(回想シーン)
「その子はまだ朝ごはんを食べていません。よろしくお願いします」
大粒の涙がボタボタこぼれ落ちる薫。まるで泣いていることすら気が付かないように。
帰りにフェリーで薫が思いつめたように言い出す。「やっぱ、わたし産もうかな。お母さんだって分かってくれると思う」
携帯でその事を母に伝える。
一筋涙を流して「わかった。帰っておいで」という母。
(これで終わりかと思ったら、さらにドラマは続きます)
岡山港に着きフェリー乗り場で休む薫と千草。売店で買ったお茶を手渡したのは、なんとそこで働いていた希和子だった。
出所後あちこちを転々としていたが、小豆島の風景が見たくなってここまでやってきた。
でも、どうしてもフェリーに乗れずここで働き始める希和子。
「光の島(=小豆島)」に渡っても昔の幸せな日々は帰ってこない。そう感じた希和子は夕暮れに輝く島を見つめ続ける。
人の道に外れた者(=八日目の蝉)が見る景色は綺麗なものだったのだろうか?
薫の姿をみてふと気になる希和子。しかしそんな思いを振り払うように働く。しかし薫が立ち去った後にのこした蝉の抜け殻を見て気が付く。薫だったと。
大急ぎで後を追う希和子。往来の激しい道路の向こう側に歩く姿を見つけた希和子が叫ぶ。
「 かおる! 」
声が届いたのか振り返る薫。しかし呼んだ相手が誰か気付かない。
逆行に照らされ顔のよく見えない希和子をじっと見つめ続けたが、やがてゆっくりとそのまま立ち去ろうとする。
彼女もまたシングルマザー(=八日目の蝉)として生きようとしているのだ。
終盤は映画版にない怒涛の展開で大感動の嵐です。
ただ、出所後の希和子が出てくるのはどうなんだろと思っていましたが、なんと原作にも同じようなシーンがありました。ただし、さすがに出会うまではいかず、岡山のフェリー乗り場で気になる妊婦を見かけるという描写になっています。
映画版ではその後の希和子が出てこないので、このあたりでずいぶんと印象が変わってきます。
原作、映画版との相違点(まとめ)
- 名古屋で一晩泊めてくれる人(倍賞美津子)のエピソードがある(原作にはあり)
- その家がゴミ屋敷(原作では「匂いのない家」)
- エンジェルホームでの騒動時に報道カメラに希和子が収まり、丈博が気が付くエピソードがある
- 仁川康枝が小田原に住んでいる。(原作では本八幡)
- 薫には妹がいる(原作では妹との会話がある)
- 映画版では素麺を作っているが、ドラマ版では給仕係。(原作では食堂の配膳と売店の売り子)
- 小豆島で恋をする(ドラマオリジナル)
- 獄中の希和子が出てくる。
- 虫送りの祭りは昼間に行われる。(映画場面では夜の幻想的な場面)
- 誘拐時にぼやを出している(原作にはあり)
- エンジェルホームの描写が詳細。
- エンジェルの家から脱走するくだりがより具体的になっている
- 沢田久美のエピソードが膨らんでいる
- エンジェルさんが映画版では教祖風だが、ドラマ版ではサライ(高畑淳子)とエンジェル(藤田弓子)の2人に分かれている
- 小豆島で最初に付いた職がラブホテルの従業員(原作通り)
- ドラマ版では素麺屋のおかみさんが寡婦である。(映画では平田満がダンナ)
- 犯行に至るまでの経緯が描かれる。(原作では2度の堕胎をしながら別れられない経緯を延々と綴っている)
- 希和子は赤ん坊を見たときに、その首に手をかけるしぐさがある(この演出はハッキリ言ってミス)
- 希和子の一人暮らしの家に吊り下げたおもちゃがある(陳腐になりがち)
- 指名手配されたニュースを見た後、テレビをつけようとした子供に声を荒げる(陳腐)
- お乳がでないシーンがない。
- 髪を切らない
- 希和子と薫の写真が写真館の入り口に飾られている。
- 写真を撮るのは、逃亡を決意する前
- 小豆島に久美がやってくる
- 薫が女の子の格好をしている(映画ではずっと男の格好をしていた)
- 小豆島で病気にかかるエピソードがあり、これで文治と仲良くなる
- 保険証の問題から小学校に上がれるのかという問題に発展